【映画評】アメリカン・サイコ 殺人鬼の本当の苦悩とは?【解説】
容姿端麗、文武両道、全てを手にした主人公の苦悩を描いた作品は多い。
今回紹介する映画「アメリカン・サイコ」も例外ではない。
しかし、この映画は他とは違う一風変わった着眼点で、社会風刺にまでその触手を広げている。
今回は、目に見える映画評ではなく、その内実を自分なりに分析したい。
なおこの記事は、「アメリカン・サイコ」のネタバレを含みます。また、抽象的な概念での分析になるので、見終わった方のほうが理解しやすい内容になっていると思います。
あらすじ
80年代のニューヨーク。人々は好景気に沸いていた。主人公パトリック・べイトマンはウォール街に勤める27歳の一流エリートマン。普段から体の鍛錬と美容を怠らず、筋肉ムキムキの美形イケメンだ。仕事場では自分のオフィスと秘書を持ち、彼女は社長令嬢。すべてを手にしたかに見えた彼には、物質では満たされない心の渇きを感じていた。彼は心の渇きを満たすため、殺人に取りつかれるようになる。どんどんエスカレートしていく彼とそれを取り締まるべき社会。二つの関係性は誰も予想出来ないラストへと向かっていく。
さあどうでしょう。どこかで見たことがある設定だと思います。
しかし、この映画は先述のように、一風変わった切り口をラストに用意しています。
それはなんなのか?
そのまえにまずは、オレ的出演者紹介を行いたいと思います。
オレ的出演者紹介
今回紹介したい出演者は三人。
順にオレ的に紹介していきます。
クリスチャン・ベール
なんと言ってもまずは主人公クリスチャン・ベール。
私も敬愛するダークナイト三部作で主人公バットマンを演じ切り、他の有名映画でも重要な役を担っている。彼のすごさはやはり役作り。
続いて公開された「バットマンビギンズ」ではこの体型に仕上げるというストイックぶり
今回の「アメリカン・サイコ」でも、先述の通りの筋肉ムキムキイケメンを演じており流石のストイックさを見せつけた。
ジャレット・レト
次に、主人公のライバル役で登場するジャレット・レト
彼は「スーサイド・スクワッド」でジョーカー役を演じており、クリスチャン・ベールとバットマン繋がりがある。
「スーサイド・スクワッド」ではご覧のようにヤバい奴だが、今回の映画ではエリートマンを演じている。
ただ、「アメリカン・サイコ」ではパトリックの無残な犠牲者になってしまう、、、
ウィレム・デフォー
そして最後にウィレム・デフォーだ。
彼は今回殺人事件を追う刑事役で登場するが、この人もヒーロー映画に出演している。
初代スパイダーマンの敵役だ。
そんな感じで、今回は図らずもヒーロー映画出演者が三人も集合した。
出演者紹介はこの辺にして、次は物語のメッセージ性に迫りたいと思う。
アメリカンサイコからのメッセージ
「アメリカン・サイコ」が映画を通じて言いたいことは何だったのか?
今回は作中を通して描かれる主人公パトリック・べイトマンの苦悩とラストにかけて投げかけられる社会風刺を取り上げたいと思う。
殺人鬼の苦悩
一般人から見ればパトリックは全てを手に入れているように見える。
しかし彼は、自分の絶対的な存在を評価するのではなく、他人との比較つまり相対的評価でしかその価値を認識できていない。
仕事仲間の名刺が自分よりセンスが良いと感じると汗が止まらなくなるし、自分より早く高級レストランを予約されると激高する。
作中では自分自身についてモノローグで以下のように語っている。
パトリック・べイトマンという概念はある。抽象的な概念は。だが本当の俺というものはない。存在はするが幻影のようなものだ。俺と接し気が合いそうだと感じるかもしれないが、それは本当の俺ではない。
相対的評価の中で生きてきた彼には、本当の自分自身というアイデンティティを確立できていないのだ。
こうした苦悩を抱える彼は殺人というある意味絶対的なものに価値を見出す。
彼は初めて、相対的評価から離れた場所で自分の快楽を見つけたのだ。
しかし、殺人は社会的制裁からは逃れられない。
彼は、殺人中毒の自分が捕まってしまうことを覚悟する。
社会風刺
止まらない彼の殺人衝動と増えていく犠牲者。
このままでは捕まると確信したパトリックは知り合いの弁護士にすべてを告白する留守電を残した。
次の日、全てを覚悟して弁護士に会うが、冗談だと笑い飛ばされてしまう。
しかも、その弁護士は彼をパトリックだとも認識していなかった。
ここで作中を通じてのテーマが明らかになる。「無関心」だ。
弁護士は自分のクライアントに当たるパトリックを認識しておらず、彼の告白に耳を傾けようとしなかった。
パトリックは衝動的に殺人を行い、その証拠は明らかだ。しかし、刑事をはじめとする捜査機関は彼が犯人だということに少しもたどり着けない。
殺人現場として利用していた部屋は、何者かによってきれいに掃除されていて、何事もなかったかのように売りに出されている。
パトリックは自分にとって初めて絶対的な事柄であった殺人と向き合っていた。
社会的に許されることではないし、裁かれることを覚悟していた。
しかし、社会は殺人に対してすら、無関心だった。
結局彼は、自身の罪を裁かれることすらなく、強制的に普段の生活に戻ることになった。
彼は結局自分を絶対的には見てくれない社会に絶望して、映画は終わる。
感想
映画を通してのテーマである「無関心」はあくまで私が感じたものです。つたない文章ではあると思いますが、みなさまに伝わったでしょうか?
見終わった時は、正直全く理解できませんでした。ネットにあるレビューを見つつ、自分にとっての解釈がようやくまとまった形です。
現実世界では絶対に見つかるような殺人の数々を映画では、社会の無関心を風刺的に表現し、パトリックが捕まることはありません。
本映画の題名「アメリカン・サイコ」はパトリックのサイコ殺人とアメリカ社会の無関心が起こす異常性に対するサイコという意味でダブルミーニングだと思います。
結局物語では、エスカレートするパトリックの殺人に対して、なにも起こらないという、本人にとって最も消化不良の結果をシニカルに表現しています。
映画劇中で唯一の救いは、秘書ジーンの存在でしょう。
彼女は他の登場人物と異なり、パトリックの本質を見ようとしていました。
パトリックのデスクの中にある彼が書いた殺人に関するノートの描写を見つけた彼女は、とても悲しい顔をしていました。
よく見る設定のサイコキラー映画と思わせて、社会風刺を盛り込んだ本作はとても皮肉である意味笑える映画に仕上がっていると思います。
2019年12月14日現在、ネットフリックスで視聴できます。