一ヶ月に一度くらい彼を思い出すんだ
一ヶ月に一度くらい彼を思い出すんだ。
あれからそろそろ2年が経とうとしている。
真冬の1月のことだった。
大学入学と同時に始めた塾講師が合わず、半年で退職した僕には職がなかった。
大学も真面目に行く方ではないし、ニートと形容にするに躊躇いのない状態だった。
何か始めなければという気持ちに従い、手始めに派遣のバイトをやってみることにした。
長期のバイトがやりたかったけど、なんとなく怖いもの見たさというか、
言うならば、ウシジマ君の世界が見たいような気持ちで始めた。
まず、引越しと配送のバイトをやってみた。
そこは単純な地獄だった。
圧倒的肉体労働とドライバーからの心ない怒号を受け、これが底辺かと痛感した。
1日働く分稼ぎはいいものの、こんな仕事は二度とやりたくないと思った。
しかし、三回出勤しないと日払いで給料を貰えない制度だったため、仕方なく川崎のライン工場で働くことにした。
そこで彼と出会ったんだ。
初めて川崎の工場に行くということで、派遣会社から何度か経験がある彼と一緒に行けと指示が出ていた。
川崎駅に着き、集合場所の目印である時計塔の下で彼と合流した。
彼は三十代中盤の男性だった。
身長は160cmくらいで、恐縮だがかっこいいとは程遠かった。
彼の案内で日雇いで訪れた人々が乗るバスに乗り、華やかな川崎駅から陰鬱な雰囲気が漂う南部の工場地帯へと向かった。
バスを降りたところで彼が言った。
「一度工場に入ると退勤するまで外には出れないのでコンビニとかでお昼ご飯を買った方がいいですよ。」
「あ、なるほど。ありがとうございます。」
100%の良心で教えてくれた。
思えば彼は終始僕に対して敬語だった。
どう見ても年下の男で1日限りの付き合いなのに彼はとても丁寧に接してくれた。
引越しや配送のドライバーとは全く違う対応だった。
そうこれは、彼がどんなに素敵な人だったかという話なんだ。
始業前、昼休み、15分休み、帰りのバス。
彼と色んなことを話した。
人見知りな僕だか、彼との話は楽しかった。
ライン作業をしていて理不尽に怒られたこと。
大学生で怖いもの見たさで派遣のバイトをしていること。
派遣バイトのつらさ。
色々話した。
彼も彼自身の話をしてくれた。
バンドマンで音楽を志していたこと。
夢破れて就職したこと。
職を点々として今は次の仕事が見つかるまで派遣のバイトをしていること。
彼女のこと。
お互いの趣味の共通項についても話した。
Youtubeで配信をしているドラマーのむらたたむのこと。
Jリーグのこと。
彼はガンバ大阪のファンだが、FC東京のレジェンドの石川直宏が引退する時は涙を流したこと。
僕の稚拙な文章で彼の魅力がどれだけ伝えられただろうか。
本当に彼は良い人だったんだ。
僕は不思議でたまらなかった。
派遣のバイトを3つやっただけで、世の中の悪意のほとんどを見たような気分になり、大人への不信感が強まっていた。
でも彼はそんな状況にずっと身を置きながらも優しさを忘れずに、今日限りの付き合いの人間に親切に接してくれる。
どうしたらこうも優しくなれるんだろう。
宗教には入っていないが、前世の徳は本当にあるのかなと思うほどだった。
帰りのバスを降りる頃には、僕は彼が好きになっていた。
飲みに誘いたい気持ちもあったが、彼に無駄なお金を使わせてはいけないなと思った。
川崎駅の改札で別れを告げた。
もう名前も思い出せない。
それきりの付き合いだった。
でもそれから一ヶ月に一度くらい彼のことを思い出すんだ。
今何をしているんだろうか。
仕事は見つかったかな。
でも全ていらぬ心配だろう。
彼はきっとどんな状況でも人に優しく、愛を振りまける人だ。
きっとどこかで、周りの人や彼女を幸せにしているに違いない。